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公開:2022年5月8日
一時間と三十分掛けてやつて來る夕方の驛、ここは都心なのに、いつも人がまばらだから好きだつた。ギターケースを背負つた長身の靑年、小豆色の手袋で電話を掛けてゐる中年の女性、談笑してゐる頭の薄いサラリーマン二人と、今、公衆電話の脇に突つ立つてゐる私の前を、色の濃い外國人が去つていつた。私自身を第三者の視點で形容するならば……若くもなく、さして年老いてもゐない、眠さうな眼を太い黑緣でごまかした、野暮つたいフリーター……だらうか。抽象的過ぎるとしても、さう心掛けてゐるのだから仕方が無い。事實として私は地味であり、無力であり、人畜無害である事だけが取柄な人間なのだ——さう、「無害」といふ域に至るまでの困難を思ふならば——これも立派な長所なのだ——「普通」であるといふ事は誰の氣にも|留《とま》らぬ事——無害の獲得と、氣にもされてゐない事實に氣附くまで、とても時間が掛つた。
待ち人までが私を忘れてしまつたのではないかと思ふ頃、待つた、と聲を掛けられ、眼を開けた。私は氣の長い人らしく、それ程、と答へた。さすがに今來たところ、と言ふには遲く、外は暗くなつてゐた。
さつさと階段を|上《のぼ》つてしまふ彼に、裾を引つ張る事もできやしない。彼のアパートに著く十五分、私だけが早足の|散步《デート》が續く。
風は無いが、耳は引つ張られるやうに痛かつた。あんまり冷た過ぎて、觸れた指の溫かさも感じない程。さ、と手を上著のポケットに戾す。新しく買つたガーゼのTシャツは、ふはふはですべすべで、とても氣持が良かつた。でもこの生成りの色は、まるでパジャマみたいだ……靑白い外燈の下では、氣にもならないけれど。手の甲を覆つてしまふ袖丈は、「萌え袖」だと馬鹿にされたが、冬ならこのくらゐの方がちやうど良かつた。實用に適ふなら、見え方なんてどうでも良い。
「ただいま」
彼のポケットに入つてゐた鍵は、きんきんに冷えてゐた。|他人《ひと》のポケットに手を突つ込むのが樂しくて、最近では私が鍵を廻してしまふ。飾り氣の無いホルダーを玄關のフックに引つ掛けて、その脇の下から彼の手が電氣のスイッチを押す。腕が引つ込む時私の胸にぶつかつて、彼がン、と短く、しかしはつきりと聲を上げる。
私がぽけつと靴の紐を解いてゐる間に、彼はコンロのつまみをカチッと廻し、エアコンをつけ、ポットの湯をタンブラーに注いでゐた。
「風呂入るか?」
「うん……」
「その頃にはできあがつとる」
ユニットバスに入ると、細かい毛が壁のあちこちに飛散つてゐた。髮、切つたんだ……全然氣附かなかつた。相變らず、鏡の錆び附いた緣には使ひ捨ての剃刀が差込まれ、洗面臺の隅には消毒用のジェルが備へ附けられてゐる。赤と靑、兩の蛇口を少しづつ廻して、熱いシャワーを頭から一氣に浴びる……これからする事を思ふと、何もかもが冗長に感じてしまふ。シャワーも、夕飯も、その間の微かな雜談も、ささいな……ささやかな、私のための親切だといふのに……。
風呂から上がると、やはりいつもの通りに、足下にはバスタオルが敷かれてゐて、彼はイヤホンを片耳に突つ込んで、|大畫面《パソコン》でゲームのプレイ動畫を觀てゐた。
「いてッ」
へたれたカーペットに踏出した途端、何かが|踵《かかと》に刺さつた。ひよいと足を持上げると、きれいに|彎《わん》曲した、厚い爪だつた。彼の眞つ黑いつむじを見詰める。足の裏に貼附いてゐるのは、何も爪だけではない。
「コロコロ……買つたら?」
「ええつて」
「私が怪我あすんの」
彼が鍋の蓋を開ける。もくもくと湯氣がたちのぼつて、拭いたばかりの眼鏡が、また曇つた。……生姜の匂ひがする。
「氣持いいか?」
「う、うん……もつとして」
きつと私は變な顏をしてゐると思ふ。身體がすべてを受容れる、そんな形をして、ぎゆつと收縮してゐる。彼の|呼吸《うごき》に合せて。
ぎゆ、つと……何だらう、貝? ピンク色の、ぬるぬるした、やはらかく、引締つた、貝、の身……浮立つてゐるせゐか、そんな生々しい事を考へてしまふ。かぱつと蓋を開けられて……搔き出されて、吸ひ盡されて、眞つ白にされてしまふ。で、放出し盡した私は、|抛《はふ》り出されて……それで? ——核心を突かれてゐる最中にも拘らず、腦裏には小鉢に積上つた|淺蜊《あさり》の殼が、ありありと浮んでゐた。
「……」
最後は、マッサージ。肩凝りの方が、實は膨れ上つた本能的欲求よりも、深刻であつたりする。今のコートは實用的である代りに重くて、リュックが肩に食込んだ後などは、とてつもない疲勞感に襲はれるのだ。それを話したら、胸のせゐぢやないかつて。さうかもねつて。笑つて許した。CMで觀た、輕いダウンジャケットにしようかな、一緖に買ひに行かない? そしたら、俺はいい、と。彼はいつも獨り。接點は……さう、單純に、會ふ時だけ。買物とか外食とか、一緖にした|例《ためし》が無い。でも一緖に買物して身にならないのは前の彼で知つてゐる、だから彼は賢い。私の下手さを露呈させない彼は賢い。そんなわけで、無駄の無い私たちの附合ひは上手くいつてゐる、多分。
「よいしよ」
麥茶を取りに、彼がベッドを降りる。毛布がめくれてひゆうと冷氣が入つてくる。急速に冷めるのは身體だけでない、それに怒りさへ感じる。もどかしさ。戾つてきた彼は變らない風である、でも私は元の|溫《ぬく》もりを取戾すのに、四苦八苦してゐる。これを言葉にするのも愚かしい。寂しがり屋、甘えん坊、構はれたがり屋——そんな風に彼らは表現したりするけれど、實際巢くつてゐるのは不信なの。手を握つたり、頭を撫でたり、そのまま行爲を續けたり——“彼”たちのする事はどれも芝居がかり、「戀人」を演じたい虛が見えた。
較べ、隣にゐる彼は氣に障るが强い人だつた。一人で何でもできるし、一人で何でもする人で、私の領域を侵さうとはしない——同時に、彼を侵す事もできない——强い人と附合ふのは賴りになるし安心もできる、けれどこの內に祕める「弱」さを、判つてはもらへない……——共有する事も、また觸れる事も——これ以上に無く私を孤獨にさせてくれる彼に對して、“孤獨以外”をも求めるのは、强欲といふものだらうか? ……
弱味の無い彼に、せめてもの抵抗にと|啜《すす》り泣いてみたりもする。か弱いところを見せたいといふのもあるし、實際、私の心は常に|潤《うる》んでゐるやうなものなのだ。……しかしまた、泣いてみたところで、何も變らない事は知つてゐる……にも拘らず……私は泣いてゐる理由も、どうしたら泣き止めるかさへ、分らないのだ。弱さ、我儘、さう言つてしまへばお終ひで、では、どうすれば强くなれるのか? 我慢できるのか? 慾をきつぱり捨てた、自立した人間になれるかといふのは、私の……人生の課題だつた。
でも、當面は眼の前の幸福でいつぱいで、逃げていく餌を追つ掛けるみたいに、ひたすら屆く事を祈りながら走り續ける、そんな每日……。
彼に、そつと觸れた。
背中を向けた、脇腹に。何もしてくれないやうで、彼は手の甲に觸れ、すべすべだと言つてくれた。
「怠け者の手だよ」
前の彼にも言つたし、そのずつと前の彼にも言つた。言つてくれたのは父親で、その頃私は引籠もりだつた。
ぐ、と身體を押附けると、ン、とまた變な聲が、背中を通つて、私に響いた。
實用的なお樂しみについて、私は手を動かす事しか知らない。
きつと彼は變な顏をしてゐると思ふ。身體がすべてを受容れる、そんな形をして、ぎゆつと硬直してゐる。私の|呼吸《うごき》に合せて。
靜かだけれど|逞《たくま》しい、そんな彼は、大樹が大事に育んだ、はち切れさうな果實を思はせた。熟した立派な一房の、厚ぼつたい皮を剝くと、ぬるりと濡れた身が、|頭《かほ》を出した。