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公開:2022年5月8日
眼を開けると、モモは廊下に立つてゐた。VR醉ひの經驗は無かつたが、眩暈のやうなぐらぐらとした感覺は、三時間も眠らなかつたせゐだらう。大方の集中力は、午前の試驗で使ひ果してしまつた。白い壁紙の輝度、と言はず全體の輝度をもう少し落して欲しかつたが、勿論そんな文句は言へない。視界の隅にはただ「企業支社ビル」「32F」と表示されてゐる。事件の|資料《データ》を手元に投影しながら、モモは步を進めた。ガラス張りのオフィスの中では、從業員が猫背でキーボードを叩いたり、ホワイトボードに歪んだ圖形を描いたり、壁に寄掛つてコーヒーを飮んだりしてゐた——自分にも一杯欲しい。
「ああ……!」
聲が上がつたのと、廊下の角から出てきたカートにぶつかつたのは同時だつた。まるで夢から彈かれたやうに、モモはどきんとして、謝罪の言葉を口走つた。倒れたモップを拾はうとした指の爪が、|CIF《シフ》の|裝甲《フレーム》にカチンと當り、今度はカートを押してゐた相手がびくんと跳ねた。
「ごめんなさい! ごめんなさい、すみません……すみません」
モップを抱き抱へるやうにして、CIFは後退した。
「大丈夫」顏を上げたモモは、笑顏を向けた。「ソルフェリノ、ですよね」
「……はい」
淸掃員は|俯《うつむ》いて應へた。正面は落著いた象牙色に塗られ、背部の|凹《くぼ》みには黃色が入つてゐる。角ばつた立方體の四肢が特徵的な、所謂“箱型”のCIFだ。細かな作業にも適ふ人と同じ五本指、脚部は走行に適したローラーを有してゐる。ソルフェリノがみじろぎすると、モモは續けた。
「あなたがこの階の擔當なんですよね、現場も?」
「事件後は專門業者が……」
「事件前は?」
「記錄を提出しておきます……」
「ええ、でもあなたから直接聞きたいんです。あなたはハントさんがまだ職場にゐる事を確認してから退勤した?」
「……」
背後から人が來たので、モモは固まつてゐる淸掃員の代りにカートを壁側に寄せた。「別に責めてゐるわけぢやないんですよ、勤務時間は過ぎてゐたんですから、あなたが歸つても」
「良いと」ソルフェリノは證言した。「良いとおつしやつたんです」モモは眉をひそめると、努めてゆつくりと、震へた言葉の焦點を合せた。
「ハントさんが、あなたに歸つて良いと言つたんですね」
「……さうです」
彼女は何度も頷いて、ソルフェリノに禮を言つた。立去らうとした時、CIFの左足に|凹《へこ》んだ箇所を見附けて、彼女は素早く|跪《ひざまづ》いた。「【けが】してる」
「あ!」生身の手の感觸に、ソルフェリノは再び聲を上げた。「|止《や》めて、ください!」
「これ、どうしたの? 痛いの?」
「痛くなんか……」脚がローラーから二脚に變形し、損傷した部分は背部に隱れた。「いつも、ぶつけるんです、記錄見れば、わかりますから」
「はあ……」
半身を起したモモは、少しだけ身長が伸びたソルフェリノと視線が合つた。CIFには|眼《カメラ》が設けられてゐるわけではなかつたが、モモにはつぶらな瞳で見詰められてゐるやうな感覺が沸き上つた。靜止した姿から漂ふもの、それはバケツのツンとした臭ひでもないし、洗劑の突拔けるやうな淸涼感でもない。タンクに溜まつた埃つぽさとも違ふ。
モモが何か【物想ひ】に|耽《ふけ》てゐる間に、ソルフェリノの凍結した時間が解け出して、それはそつと手を差出した。モモはその手を取つた。溫かい手だつた。溫かく、硬く、ざらついて、指は彼女よりも細かつた。
「……すみません」
「氣にしないで」彼女は手を離し、苦笑した。「なんか、謝らせてばつかりだね——私の友逹も、さうだつた」
ソルフェリノは顏を逸らすと、カートを摑んだ。「私は——【私たちは】、【謝罪など求めてはゐませんから】。それで良いんです」
遠ざかつていく車輪の音を聞きながら、モモは天井を仰いだ。
現場は階に三つある會議室の一つだつた。大きな圓卓と壁一面のスクリーンがあるだけで、絨毯には染み一つ無く、プラスチック素材の揮發した臭ひが漂つてゐた。被害者は每晩ここに入り浸つてゐた。
「個人的なプロジェクト?」
「創造——妄想とも言へますね」
低い聲で答へたのは、被害者の「元」祕書だ。
「綺麗ですね」
「お祝ひに、頂きましてね」アンドレークは花を活けてゐるところだつた。圓卓の|隅《すみ》に|解《ほど》かれた色とりどりの花束に手を伸ばしながら、壺のやうな大口の陶器に插していく。祕書だつた|CYL《シル》は、元上司の地位について、職場の人間關係について、自分のアリバイについて、必要な質問に坦々と答へてみせた。
「私をお疑ひでせう、カステルさん」
未來の警部は咳拂ひした。「第一發見者ですから」
「私がクローザーだから、簡單に人間を殺せると、さうお考へでせう」
モモは何の身振りもしなかつた。
「クローザーは人殺しか——まあ、間違つてはゐません、元は軍事の需要ですから」
「あなたには動機もあつた」
「このちつぽけで退屈な地位? ええ、警備隊に戾るよりはマシだつたかも知れません。でも今は知つてゐるんですよ、どこに、どの地位にゐても、滿足しない事を」
「ぢやあ……何が滿足なんです?」
「何でせうねえ……ある意味で、彼の死によつて、その道は閉ざされてしまつた、と言へるのかも知れません」
「でも警備隊よりはマシ、といふのは意外ですね。あなたには人を殺す恐怖も、“一つの命”を失くす恐怖も無いのに」
「率直な人だ」
「私がCYLと仲良くなれる理由です」
「なるほど」、とアンドレークは相槌を打つた。「確かに、私たちは率直な人間を好みます——あなた方はそれを誠實さと置換へますが」
「ハントさんがあなたを隊員から祕書に昇格させたんですよね?」
「“昇格”」ひらひらと、黃色い|花辧《はなびら》が床に落ちた。紫の花を一本引拔くと、アンドレークはその太い莖を折つて、もう一度花甁の隙間に押込んだ。「彼の氣紛れですよ、ボディガードのつもりだつたんぢやないですか——支社十二體のクローザー、そのうち|所有者《オーナー》に反旗を飜すのは? ……ノーです、私はコードの改變を受けた事がありません」
「それは【あなたの】認識ですよね」
「ご尤も——檢證に掛けられたとしても、私が修正される事は無いでせう」
何か不毛な話をしてゐる、といふ事はモモにも解つてゐた。CYLに口止めなど不要なのだ。實行犯にさへ悟られずに行はれる犯罪に、出口はあるのか。
「あなた自身は……どうなんですか? ご自分がやつてゐないと言ふなら、誰がどうしてこんな事になつたと?」
彼女は闇雲でも進むしかなかつた。|逮捕《クリア》する事ができなくても、事件の全容を明らかにしてこのゲームを終へたかつた。
「私に聞くんですか?」アンドレークは首を傾げ、片手を顎の邊りに當てた。CYLとしては【ナンセンス】と呼ばれる類の仕草だが、モモとしては|些《いささ》か緊張が和らいだ。相手が向きを變へた事で、CIFの胸部が|露《あらは》になつた。灣曲した、艷消しの施された滑らかなグレー地の裝甲に、淡いブルーのラインが入つてゐる。|徽章《エンブレム》は無い。彼女はこの實技試驗のために一夜漬けでCIFのカタログを頭に叩き込んできたが、この型は覺えが無い——いや、オルドバードの高級モデルに似たやうな造形があつた氣がする。
「クローザーを前提にするなら何でもありですよ——例へば、淸掃員のCIFを使つて不意打ちするとかね」
「……」
「あなたも【餘計な事】をしてゐた。どうですか、あのやうな汎用型の、獻身的なCIFには惹かれますか」
モモは人差し指でこめかみをぐいぐいと押した。「あなた『も』といふのは……ハントさんが? それともアンドレークさん、【あなたが】?」
「あれはアルバに附合つてゐたんですよ、お話しした通り、遲くまで殘つて金にもならない事を樂しむのが彼の習慣でしてね」
「その淸掃員つてのは間違ひ無いんですか?」
「ソルフェリノ、といふんですかね、記錄を見ましたから、間違ひ無いですよ」
「それで、【かれ】も警備隊上がりの淸掃員だと?」
「まさか、通常の生產ラインですよ。私が言つてゐるのは、內部にしろ外部にしろ、權限レベルの低いCIFなら誰でも乘つ取れたであらう事ですよ。あの手の作業用のCIFは從業員に貸與されてゐるだけですから」
「なるほど……ぢや、アンドレークさんは、人間の仕業だと考へてゐないんですね」
「どうでせうねえ。私は狀況から考へただけですよ、實際|深夜《よる》にここをうろうろしてたのはアルバ自身とあの淸掃員だけなんですから」
「けどあなただつてCIFは自分のオフィスに置いて……だから誰よりも先に出勤できるんでせう?」
はあ、と溜め息にも似たノイズ混じりの排氣が、アンドレークから漏れた。「記錄以外の物證を見附けなきやならない、警察は大變だ」
要するに、ログイン履歷を始めとした記錄の改竄も又容易といふ事だ。しかし物證——現場の痕跡は既に——。
「あなた方が協力的だつたら……」
「カステル|警部《リューテナント》、あなたは勘違ひしてらつしやる、ええ、あなたの仕事は、署に戾つて、この件の追跡は不可能だと報吿する事です」
それは、挑發ではなかつた。事實だつた。署はたつた今、所有者から業務命令を受けたのだ。
アンドレークは包みに何本かの花を殘して、花甁を完成させた。確かに見た目は美しいが、モモにはその立派さが分らなかつた。選ばれた花と、選ばれなかつた花があるだけだ。アルバ・ハントが死ななければここに無かつた花が。
「さつきの話ですが」彼女は足搔いた。「私は眞面目な【CYL】に惹かれます」
「しかしあなた方が惹かれるのは【CIF】なんですよ。その|操縱者《プレイヤー》が何者か、あなたは知らないんですからね。でせう?」
「率直にお願ひします」
「アルバが十二體のクローザーのうち、私を選んだ理由です——氣紛れ、さう言ふ他ありません。ソルフェリノにしたつて、彼に聲を掛けたCYLの一體に過ぎないんですから、全く、不條理でせう?」
「ソルフェリノが?」
「彼の方から、だつたかも知れませんが」そこで初めて、アンドレークは自信に滿ちた聲色を崩した。「いづれにしろ【目障りな】CIFは幾らでもゐたわけです——何も淸掃用のCIFを見掛けたのはあれが初めてではないでせう」
モモはをかしかつた。「……あなたは、嫉妬してるんですか?」
「私はですね、人間の|無作爲《ランダム》性に對處するのは大變だと、ええ、部外者のあなたに理解して頂きたかつた——アルバもあなたも、我々に不適切に對處してしまふ。訂正して下さい、カステルさん、ソルフェリノの第三稱を」
「『彼女』つて事ですか」
「私は【もののあつかひ】に關しては保守派なんです。我々は人ではありませんから」
「そもそもジェンダーなんて無い、つて?」
「人は自由だと言ふ。しかしアイデンティティーを人間と混同するべきではない。そのやうな事がまかり通つていくと、次第に一部のCYLは|大《だい》それた事を平氣で行ふやうになるでせう。それは滅びの豫兆なのです——我々の存在の、つまりあなた方の。私はあなた方にも、高い意識で臨んで欲しいと思つてゐるのですがね」
モモは眼を伏せて、故鄕の友人たちを思ひ起した……「私は些細な事だと思ひます——いえ、とつても大事な事、だから日常的に感じてゐて欲しいんです。既にあなたたちは……自由で不自由、なんですよ、不自由過ぎるくらゐ不自由」
甲高いノイズが走つた。「哀れみ、結構、我々のコードを破壞していくのが又人間である事も、私は理解してゐます——平等な友が欲しいですつて? ああ、なんて理不盡なんだ!」
モモは唇を嚙んだ。
「勿論、あなた方は友を望まれるので、そのやうにさせてもらつてます——モモ・カステル、私たちは友逹ですか? あるいは、友逹になれるでせうか?」
「……」ここへ來て、モモは口の中が渴いてゐる事に氣附いた。【友逹になれるか】だつて? そんな問ひそのものに驚いてゐた、純粹な自分が懷かしかつた。【キルスイッチ】、【バックドア】、【ログの監視】、原理として學んできた事が痛みを伴つて、現實の一部になつた。自由な人間である筈のモモは、かう返した。
「【ええ】、【なれると思ふわ】」そして、笑つてみせた。「この事件が片附いてから、だけど」
「つまり、私たちは|訣別《けつべつ》するのですね」
「それが理由だつたの、アンドレーク、彼と友逹になりたかつたの?」
「【いいえ】、カステル警部、あなたは何か誤解なさつてる、あなたの——あなた方の、自分に優しくするやうな奉仕の錯覺は、まるで……」
アンドレークは包みの中に取殘した數本の花の中から、空色の薔薇を拾ひ上げて、自分の方にくるりと廻した。
「どうぞ、お引取り下さい——あなたの言ふ通り、この件は片附きませんから」
——お了ひだつた。
世界は暗闇に飮まれていつて、もう一度眼を開けると、答への無い假定が始まる前の、薄暗い視聽覺室に戾つてゐた。淺黑い肌の試驗官が椅子に沈み込んだまま、水の入つたボトルを促した。「殘念ながら、企業は一切の資料の提出、及び被害者宅の立入りを拒否しました」
モモの手元にあるのは證言の|速記《テキスト》のみだつた。結局のところ、假想空間でアンドレークが述べた通りのシナリオを演じなければならず、モモは腹立たしくも、試驗官にさう答辯した。「模範解答を敎へて下さい」でなければ歸れません、さう|附《つけ》加へた。
「無いよ」言つたのは、隣の席にゐるCYLだつた。「これが現實だ」
モモは眉を寄せた。「今囘はさうだつたけど」
四脚型CIFの試驗官が、明瞭な力强い聲で言つた。「モモ・カステル、お前はどうする、この事態に」
「あの、えつと、遺憾、です」
「受け容れろと言はれたら」
「……」
これが、求められた解答だつた。「受け容れます」企業に奉仕する公僕としての、唯一の正當な。
「サブロ、お前の意見は」
「防犯課で良いんぢやないかね、そろそろブルーノの奴にも觸合ひつてのを學んでもらはんと……いや、協力するつて意味でね」
試驗日のために開放された署の中庭で、モモは背を伸ばした。タブレットを起動し、證言のログを開く。顏がほんのりと赤くなつてゐるのは、決して會場のケチられた溫度設定のためではなかつた。刈込まれた芝生の上を何度も行つたり來たりした後に、彼女はある一行を指でなぞつた。文章の背景が赤く色附いていく。【淸掃員のCIFを使つて】。しかし、誰も痕跡は殘さなかつた。祕密があるといふ、たつたその事實だけがあつた。
會場の扉がばたんと開いた。モモは顏を上げ、試驗の時隣にゐた、白い箱型CIFがこちらにやつて來るのを認めた。それは立盡してゐる彼女を氣にする樣子も無く、中央のベンチに坐つた。モモはタブレットをバッグに仕舞つてつかつかと步み寄つていくと、お疲れ樣でした、と聲を掛けた。
「なんだ、おれがアホな受驗生ぢやなくてそんなに殘念か?」
彼女は慌てて首を降ると、良いお芝居でした、と言つた。
「あのストーリーは、實在の事件を基にしてゐるのですか」
「まー、今んところ|苦情《クレーム》は來てねえな」
「殺人犯は野放しといふ事ですか」
「パワーゲームの駒が厭つてんなら、さつさとへヴンに還んな、孃ちやん」
「ハラスメントです」
モモは顏を背け、鼻をすすつた。空ではセレブリティの輸送機が低い|唸《うな》り聲を上げ、燒け焦げた臭ひを乘せた風が庭園の葉を|擦《こす》り合せ、先の戰鬪で病院にのめり込んだ、レッドクラウンの|CRIF《クリフ》を囘收する重機の騷々しい音が、隣區畫からこだましてゐた。六時からは雨が降り、八時にはプライベートネットワークの修理に業者が轉送されてくる豫定だつた。
「|倫理《モラル》コードに缺陷を作つて自分たちを守らせようといふ人間の心理が、私には理解できません」
「おれはルートの目安箱か、え?」
「すみません、でも今言つておかないと、忘れてしまふかも知れないから。さういふ事でせう、ストラウスさん」
モモはサブロの隣にすとんと腰を下ろした。試驗會場の暗く無機質な壁も、陰氣臭くくたびれた受驗生たちも、何もかもが取拂はれ、暖かな陽がうなじに當り、鋼鐵のフレームに身を包んだ誰かと二體きりでゐるこの瞬間、彼女は故鄕にゐるかのやうな錯覺を覺えた。
「先輩、私と友逹になつて下さい」
彼女には澤山の友逹がゐた。しかし、こんなお願ひをするのは、生れて初めてだつた。
「ことわる」
「なぜ?」
「政敵だから」
【CYLは友逹など求めない】——。
あるいは、それが|發端《コンセプション》かも知れず。